ひろしコンフォーコ

ツィンク奏者が物知り顔であれこれ語ろうとするものの、ちっとも上手くいかないブログ。

ダイエット??否!!運動不足を解消せよ!!

巷では、運動せずにダイエットする方法で溢れかえってるけど、僕は声を大にして言いたい。

 

ふざけんな!!

 

運動しないでいいなんてどんな危険思想や!!

 

おまいらは人類の滅亡を企む悪のマッドサイエンティストかっ!!!!

 

運動不足の影響!!

痩せるだけなら運動はしなくても良いかもしれないし、運動せずとも見た目には美しく痩せられるかもしれない。

 

しかし!!!

 

アホになる!!!

 

そして、不健康になる!!!

 

そんなことは誰でも知ってることだけど、どうしても後回しにしがちだ。

 

だから、ここでしっかりとゆるぅ〜く、運動不足のせいで心身や脳にどんな影響があるのか抑えておこうじゃないか!!

 

これを読み給え!!!

 

運動不足の解消で症状が改善する20の病気まとめ、腰痛や便秘解消も! | 健康はぴライフ ~幸せな人生は健康から~

 

ここに挙げられているだけでも病気は、生活習慣病から精神疾患まで、身近でありながら多くの人が悩まされている症状だ。

 

まだまだそれだけじゃない!!

 

次はこれだ!!

 

知らないと怖い!運動不足は脳の低下や老化につながる! - 40代健康注意報!

 

なんてこった!! 脳にもここまで影響があるとは!!

考えれば分かりそうなもんだけど、どうしても“運動=身体のこと”と思い込んで、脳への影響なんて考えもしなかった。

 

この記事は40代向けに書かれてるけど、齢27年のMeにも思い当たる節だらけ!!

当たりまくって痛いくらいに節にガンガン当たってる!!

 

てなことで運動はじめた!!

あーだこーだ言って運動しない人が多いけど

 

肩が凝るだの腰が痛いだの健康診断また引っかかったよワラワラ、なんて言ってる人が多いけど

 

最近疲れやすいとか眠れないとか

 

 

うっせぇ!!!

 

四の五の言わずに運動しろ!!!!!

 

 

運動しろ、おれ!!!〜+/w8j*h+#jへj+jshじぇks

 

 

ってことで、2日前から運動はじめた!!

 

 

じゃな!!!

 

頑張らない生き方。心をこめて励む重要性。

頑張ることが美徳っていうかさ、素晴らしいことだ!!って風潮が強いと思うのよ。まぁ、それも人それぞれだし、誰がどんな価値観を持っていても良いんだけどさ。でも、そういう価値観から自由になるのもいいんじゃね? って話!!

 

頑張るってなによ?

普段何気なく使ってるけど、「頑張る」ってどういうことかハッキリ分かってねぇかもなぁ、ってことで調べてみた!

 

1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して頑張る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我 (が) を張る。「頑張って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が頑張っているので入れない」

※出典:デジタル大辞泉

 

ほぅほぅ。一番良く使われるのは1つ目の意味だと思うけど、割りとイメージ通りだよね。なんとなく、重たいもの持って踏ん張ってるみたいなさ。

大事なのは「困難にめげないで」って部分かな。単に目的の為に行動するだけじゃ不十分で、困難に遭遇してようやく「頑張る」ってことが出来るんだねぇ。困難がなけりゃ一生懸命やってても「頑張る」にはならないと。そういうことですな。

 

努力って?

「頑張る」と同じように「努力」って言葉も良く使うけど、これも調べてみた!感謝しろよ?←うざい…

 

心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと。 「目標に向かって-する」 「 -のたまもの」

※出典:大辞林 第三版

 

これもなかなかおもしろいですな!「心をこめて」とか、なんか素敵やん? 「頑張る」とは違って困難とは無関係のヨーダ

 

・・・・・・・・・・。

 

とにかく、「心をこめて」「骨を折って」何かに励んでいれば、「努力」してるってことですな!

 

でも、「努力」も「頑張る」みたいに、しんどいことあっても踏ん張る、ってイメージない? 僕は、正直同じように捉えてた。実際、同じような意味で使ってたし。みなさんはどう??

 

頑張るのはやだ

もともと頑張るのって好きじゃないんだけど、それは、さっき言ったような「重たいもの持って踏ん張ってる」みたいなイメージがあって、しんどそうだから。実際、頑張ろう!と思った途端に、なんとなく気が乗らなくなることはよくある。

でも、頑張ろう!で、“俺マジ神じゃん”状態に突入して、自分でも驚くほど力が湧いてきたり、能力を充分に発揮出来るってこともある。

 

きっと、その違いは「困難」があるかないか。

 

「困難」があってもなんとか目標を達成したいという時には、何をしてでもその「困難」立ち向かう必要がある。まさしく「頑張る」わけだ。

でも、辞書によれば、「困難」がない時には「頑張る」必要がない。というよりも、そもそも「頑張る」ということが出来ない。「頑張る」必要がないのに「頑張ろう」とすることで、不要な緊張やストレスを感じてしまってパフォーマンスが下がってしまう可能性は充分にある。だって、実際に「頑張る」って言葉にはなんとなくかも知れないけれど、何かに耐えて踏ん張るようなイメージがあるでしょ? それってストレスを感じてる状態とも言える。そういう状態をイメージさせてしまう「頑張る」のせいで、実際にストレスを感じてしまって、パフォーマンスを下げてしまうというわけ。不要な「困難」を生み出しちまってると。

 

頑張らなくていいんじゃない?! 

実際に「困難」に見舞われていて、それでも目的を達成したい場合は、「頑張る」必要がある。でも、本当は「困難」なんかないのに、目的を達成する為には「頑張らないといけない」「困難は付きものだ」っていう意識が、目的達成のプロセスを辛く苦しいものにしてるんじゃないかなぁ。もしそうだとしたら、それはモチベーションやパフォーマンスを下げる原因になってたとしても、なんら不思議じゃない。

 

なんでもかんでも「頑張る」んじゃなくて、単に「心をこめて」「骨を折って」励むってのも良いんじゃないかな。

 

まぁ、実際に使う言葉と、それによってどんなことをイメージするかってのは、案外重要なんだぞぉ!ってこと!

 

努力はしようと思うものではない

「努力」って言葉についても少しだけ。

 

「心をこめて」「骨を折って」励むってことは、意識して出来るものじゃない。だって、いくら心をこめようとしたって、興味がないことに心なんてこめられないでしょ?

 

例えば、いつも奥さんに世話になってるから今日は僕が家事をやろう、とか思ったとする。この場合は、きっとこの旦那さんは皿洗いになんか興味はないだろうけど、きっと「心をこめて」皿洗いも出来る。でも、本当に「心をこめて」いるのは、奥さんに対してだ。

 

あら、素敵。

 

仕事もそうかもしれない。

自分の望んだ仕事、好きな仕事じゃなかったとしても、家族に対して「心をこめ」たり、家族の為に「骨を折って」仕事に精を出すことは出来るから。

 

あら、これまた素敵じゃない。

 

しかーし!家族に対して「心をこめ」られなかったらアウトだ!これは、家族を大切に思っているからこそ出来ることだからだ!

 

よく「努力しろ!」なんて言うけど、興味のない事や大切に思ってもいないことの為に「心をこめる」なんてことはどうやったって無理だ。身体だったり精神だったり色んな要因で、なかなか「努力」出来ない状態になってしまうこともあるけど、それでも「努力」っていうのは、「大切」とか「好き」って気持ちに裏付けられるもの。

「大切」だとか「好き」だと思ってさえいれば、取り組み方や取り組む時間は様々であっても、自然と「心をこめる」方向に向かっていく。踏ん張ってなんかいなくても、「頑張って」なんかいなくても、「心をこめる」ことは出来る。

 

そう、「努力」はやろうと思ってすることじゃなく自然と起こることなんだってこと。そして、多くの場合、「頑張る」よりも「心をこめて」励む方が上達にも繋がる。楽器もそう。勉強もそう。

 

だから、もし会社で「もっと努力しろ!」って言われたら、「心をこめて」「骨を折れる」仕事に転職を勧められてると思った方がいいな!w

 

 

「頑張る」ことよりも、「心をこめる」ことを大切にする世の中になったらいいなぁ。

 

キングコング西野の「『えんとつ町のプペル』を無料公開したらAmazonランキングが1位になった。」を受けて!! マーケティングなお話!!

昨日の記事の反論を受けて、キングコング西野さんがさっそく記事を上げてます。

 

キングコング 西野 公式ブログ - 『えんとつ町のプペル』を無料公開したらAmazonランキングが1位になった。 - Powered by LINE

 

結構な炎上っぷりでしたが、賛否両論色んな意見がありましたからね。彼の本意を知る事が出来るのは良いことです。

僕も昨日、反論記事を書きました。

 

絵本「えんとつ町のプペル」が無料に?! キングコング西野の「お金の奴隷解放宣言」に反論!! - ひろしコンフォーコ 

 

西野さんの新しい記事も出たことですし、もう一度考えてみようと思います。 

 

やっぱり作品の無料化は良くない。しかし・・・

まずは引用を。

 

作品の無料化と、近年、問題になっているクリエイターに適切な対価が支払われない(倫理的・法的)問題は、まったく別次元の話。

そこを同列に語り出したら、有名アーティストがYouTubeにPVをアップした時点でアウトじゃないか。
見たことあるでしょYouTubeを。無料で。
ちなみに、この方が使われているTwitterも無料です。

「まずは知ってもらって、ライブに足を運んでもらう」という、収益モデルがCDからライブに移行した音楽の世界では、すでに当たり前のように行われていることです。

 

全くその通りです。作品を無料化するのは、結局のところマーケティング戦略。クリエイターや芸術家に適切な対価が支払われないというのは、マーケティングとは関係のない話です。そこに異論はありません。しかしながら、こういったマーケティング手法がクリエイターに対価が支払われない問題に影響がないとは言えません。

 

それは、作品の無料化というマーケティング手法が「作品は無料で享受出来るもの」といった、間違った価値観が流布する可能性を孕んでいるからです。

 

その上で敢えて言うならば、クリエイターや芸術家がこういったマーケティング手法を行う事は、社会の為にもクリエイターや芸術家の為にも良いことだということです。というのも、西野さんが言うように、現在、こういったマーケティング手法は当たり前に行われており、ネットやテレビを通じて誰にでも情報が無料で届く時代になっているからです。

そこには、差別というものは存在しませんし、格差による弊害も少ないです。これは、みなが平等であるということ、自由を手にするということ、お金や他の何かに振り回されないということへの大きな基盤になります。いや、すでにそういう時代にあると言った方がいいでしょう。

そして、僕らクリエイターや芸術家もそれを前提として活動すべきです。

 

昨日と言っている事が違うじゃないか。

 

そう思われるかもしれません。確かにそうですよね。昨日の書いた事が間違っているとは思いませんし訂正もしません。事実だからです。ただ、今回の西野さんの記事を読んで、もう一歩考えを進めるべきだな、とは思いました。

いや、こういったマーケティング手法は必要だと考えていましたし、僕自身、数年前に問題になったような、You Tubeの影響でアーティストが食えなくなるといった立場とは異なる立場を取っていましたから。でも、昨日の僕が書いた記事ではそこまで考えが及んでいなかったことは事実です。なので、昨日とは一見相反する事を書いているような印象を受けられると思います。その点は、素直に認めようと思います。

 

資本主義の中で生きるということ

改めてまとめると、クリエイターや芸術家は今回、西野さんが行ったようなマーケティング手法を見習うべきだと思います。しかし、こういった手法がクリエイターに対価が支払われない問題に影響が出る可能性はあります。なので、作品を無料化するのは基本的には反対ですが、マーケティング手法としてやるならアリ、という事です。昨日の西野さんの記事では、作品を無料化することを美談として語られていましたからね。それには反対です。

昨日も書きましたが、

 

 価値を提供する→価値に対してお金を払う→もっと頑張ってそのお金に見合う価値を提供する→価値に対してお金を払う→さらに頑張る!

 

これが資本主義の仕組みです。

クリエイターに対価が支払われない問題を解決する為には、僕らはまず、“価値を提供”しないといけません。“価値を認めてもらう”必要があるのです。価値のないものに払うべきお金はありませんから。価値のない作品があるということでないですよ? 現実として、価値を認めてもらわなければお金は回らないという事です。

その為の試みとして、「作品の無料化を含む、より多くの人に知ってもらって価値判断をしてもらえる状況を創り出す」といったマーケティング手法を取るのはアリです。作品の価値を認めてもらうきっかけになりますから。

お金が回る為に僕らがまずすべき第一歩は、作品の価値を認めてもらう事です。認めてもらう為には知ってもらう事。当然ですよね。

 

結局、西野さんと同じ立場だった件

昨日、僕は西野さんの絵本「えんとつ町のプペル」無料化に反対しました。それは、お金がなくて読みたくても買えない人がいる、という事を理由にしていたからです。その動機自体は、僕も素晴らしいと思います。そして、資本主義に対する問題意識にも共感します。しかし、それによってクリエイターや芸術家への対価が支払われないという問題が大きくなる可能性は否定出来ません。だから、反対記事を書きました。

ただ、今日の西野さんの記事を読むと、どうやらそういう事ではないらしい。その動機や問題意識は嘘ではないのでしょうが、「マーケティング的にイケると思ったから無料にしちゃいまーす!」って事のようです。めちゃくちゃな意訳ですけどねw 

 

「お小遣いの少ない子供にも届けたい」

「お金の奴隷になってるのはおかしい」

 

このような美談で語られると、同じように無料化を求める人が増えて、クリエイターや芸術家はそれに振り回される可能性があります。でも、無料化がマーケティングの手法であるのならば、クリエイターや芸術家の判断でその手法を選ぶ事が出来ます。自分の判断で、自分の価値観で決めて、物事を進める事が出来る。自分の判断でマーケティング手法として無料化したのであれば、後でマネタイズする事も出来ます。

 

問題は、望んでいない無料化を強いられる事です。

 

無料でなくとも、適正価格より安くする事を強いられるという問題もありますよね。そういった可能性を多分に含んでいるのが、昨日の西野さんの記事です。

 

マーケティング手法として無料化するというのは、「本当は無料じゃないけど、とりあえず最初は無料にした方がオトクなんだよねぇ〜。結局後から売れるし、よりたくさんの人に楽しんでもらえるからぁ〜」って事です。これは、何も問題にならないですよね。無料で提供しても後で回収出来るんですから。

 

昨日と今日で西野さんご本人は言っている事を変えてないつもりでしょうし、実際変えていません。でも、こうやって考えてみると、その発言による影響が異なる事が分かります。

 

ま、昨日のは炎上マーケティングって事かもしれませんけどw

 

なので、西野さんが今日の記事を書いてくれて良かったと思います。僕は支持します。自分の作品を認めてもらうプロセスを持つというのは理に適っていますし、時代にも合っています。

昨日、批判した人と同じ立場だとは思いもしませんでしたが、自分の考えを改めて整理し直し、深めるきっかけになったので良かったです。

 

クリエイターと芸術家諸君!!

 

時代に負けずに、でも時代を味方に付けて頑張ろうぞぉぉぉおおおおおお!!!!!

 

 

絵本「えんとつ町のプペル」が無料に?! キングコング西野の「お金の奴隷解放宣言」に反論!!

何かと注目を集めるお笑いコンビ、キングコングの西野さんですが、今朝、自身のブログにて衝撃的な発表しました!!!

 

今日をもって、『えんとつ町のプペル』を無料にします。

 

ふぁぎゃっっっ!?!?!?!?

マジかよ!!!!

すっげぇな!!!!!

 

以下がその記事。

 

キングコング 西野 公式ブログ - お金の奴隷解放宣言。 - Powered by LINE

 

西野さんは絵本作家でもあるんだけど、その彼が製作した絵本「えんとつ町のプペル」を無料で公開すると言うのです!その理由として

 

《自分は『えんとつ町のプペル』を子供にも届けたいのに、たった「お金」という理由で、受けとりたくても受けとれない子がいる。》

 

と言っているのですが、

 

「2000円は高い。自分で買えない」

 

という小学生からの意見が事の発端なんだとか。

こう聞くと、なんとも美しい話じゃないかと、つい涙ぐんじゃいますが、本当にそうでしょうか? もちろん、彼は善意で決断したんでしょう。悪意がないだろうことは記事を読めば分かります。

 

それでも、これによって起こる弊害があることも、ぜひ知ってもらいたいと思います。

 

資本主義の話

ハッキリ言って、作品を無料で提供するという事はあり得ません。災害時などの特異な状況下でもなければ、本来あってはいけないことです。

 

何故か。

 

世の中が資本主義で成り立っているからです。

資本主義で成り立っているということは、生きていくのにはお金がかかるということ。何を買うにもお金が必要。水を飲むのに蛇口をひねればお金がかかる。それが、資本主義の仕組みです。

 

要は

 

価値(モノやサービス)にお金を払うということです。

 

価値とそれに見合うお金を交換して、その価値を手にするということ。

 

お金はどんな価値とも交換が出来る便利ツールなんですね。僕らは、こういった仕組みの中で生活している訳です。

 

お金がない人は何も買えないのかって?

 

残念ながらそういう事になります。それを防ぐ為に、セーフティネットを構築したりして、みんながなんとか食べていけるように工夫してるんですが、それでも食いっぱぐれてしまう人もいます。これはこの社会の課題ですが、働いててもお金にならないというケースもあります。

 

価値を生み出しているにも関わらず、それに見合うお金を貰えないでいる人たちです。

 

さっきと言ってることが違うことに気が付きますよね?

 

価値に対してお金を払うってことは、価値を生み出せばお金を貰えるってことじゃないの??

それなのに何で??と。

 

対価を払わない人たち

例えば音楽。

 

世界中の、本当に多くの人が音楽に価値を認めています。しかし、どうやら音楽に対してお金を払う事には抵抗があるようです。

オーケストラコンサートの価格も最近は少し見直されてきましたが、3,000円で一番良い席が買えるなんて事も珍しくありません。

オーケストラ団員って何人いると思いますか? 平均的な編成のオーケストラだと、一回のコンサートで少なくても50人は出演します。団員の給料もそうですが、指揮者の給料はかなり高いです。会場費や宣伝費もかかります。裏方さんもいます。リハにもお金がかかります。お客さんが1,000人入ったとしても、チケットが3,000円だと300万円にしかなりません。

 

これじゃー、ちっとも足りません。月に何回コンサート開けばいいんでしょうか。企業や個人のスポンサーがいるからこそなんとかやっていけますが、スポンサーの支援がいつ切れるか分かりません。

音楽家にとって一番大切なのは、一緒に時間を過ごしてくれるお客さんです。そのお客さんにこそ価値を認めて頂けるように頑張るのですが、価値を認めてもそれに見合ったお金を払うのに抵抗を示す方も少なくありません。これは、スポンサーや依頼主にも同じことが言えます。

こんな依頼主がいます。

 

「出演料?交通費?いる?」

 

まさかそんな事言う人いないでしょwと思われるかもしれませんが悲しいことに結構いるんですよ。正直、アホか、と思いますね。

こういう発言をする人は、明らかに音楽に価値を認めています。価値がないと思っているのなら依頼する意味が分かりませんから。多かれ少なかれ価値は認めているはずです。でも、お金は払いたくないと。ひどい時は誤魔化してでもお金を払うことを逃れようとします。

音楽をするのにも必要経費というものがありますし、必要な経費が賄われても音楽家が演奏しなければ音楽は奏でられません。そして、音楽の演奏は専門技術です。ということは、必要経費+出演料というのは、資本主義に則るならば当然支払われるべきお金です。

 

作品を無料にするのは大問題?!

そこで、西野さんの話に戻りますが、どうして作品を無料にするのが問題になるのでしょうか。

それは、彼のように影響力のある人間が作品を無料にしてしまうと、それ自体が素晴らしいこと、美しいことだと勘違いしたり、芸術作品が無料であることが普通だと思ってしまう人が増える事にあります。

ライバル店が値下げしたらこっちも値下げせざるを得なくなるのと同じです。

 

「向こうではもっと安かったで?」と。

 

もちろん、適正価格よりも高いのであれば、値下げもいいでしょう。でも、一部の超売れ売れ過ぎっ子以外は、適正価格よりも随分安値で仕事させられている事が多いのが現状です。そんな状況の中での西野さんの発言。

そう考えると、一見美しく思えるこの話にも大きな問題があることが分かって貰えると思います。

 

西野さんも、何もそうなることを望んでいる訳ではありません。

 

《自分は『えんとつ町のプペル』を子供にも届けたいのに、たった「お金」という理由で、受けとりたくても受けとれない子がいる。》

双方が求めているのに、『お金』なんかに「ちょっと待った!」をかけられているのです。

お金を持っている人は見ることができて、
お金を持っていない人は見ることができない。

「なんで、人間が幸せになる為に発明した『お金』に、支配され、格差が生まれてんの?」
と思いました。
そして、『お金』にペースを握られていることが当たり前になっていることに猛烈な気持ち悪さを覚えました。

「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ?
糞ダセー。

…いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません。
しかし、はたして全てのモノが『お金』を介さないといけないのでしょうか?

 

要約すると、おい!資本主義!!って事です。資本主義に物申してる訳です。それは記事のタイトルからも分かります。お金のせいで格差が生まれたり必要な人にモノが届かないことを嘆いている。その点には共感します。今回の絵本の無料化に賛同する人たちも、多くはこの点に共感したのでしょう。

僕も、本当に何が良いのかは分かりませんが、お金というものが阻むものってすごく多いので、資本主義も限界なのかな、なんて思うこともあります。

でも、西野さんの言う「お金の奴隷解放宣言」は資本主義の上には成り立ちません。

価値に対してお金を払うのが資本主義です。

生きていくのにお金が必要なこの制度の中で作品を無料化してしまうと、恩恵を受ける人がいるのも確かですが、食いっぱぐれる人が大勢出てしまうのです。

 

この世の中はお金がないと何も買えません。

生きていけません。

 

だからこそ西野さんは「お金の奴隷解放宣言」という記事を書き、作品を無料にしたのでしょうが、その行動のおかげで良い思いをする人もいれば、致命的なダメージを受ける人もいる。お金がなくて読みたくても絵本が買えないのもかわいそうですが、多くのクリエイターや芸術家の収入や活動に支障が出るのも大きな問題です。

いまが資本主義だという事を考慮した上で、決断すべきだったのでは?

12歳以下は半額にするとか、図書館や学校に寄贈するとか、Kindleで安く提供するとか、出来る事はたくさんあります。お金がない人にも絵本を届けたいというだけなら、いくらでも方法はあるじゃないですか。

西野さんは人も良いし、問題意識にも共感はするけど、ちょっと考えが足りなさ過ぎたのではないでしょうか?

 

最後に。

これは僕の価値観ですが……

 

しかし僕は、『10万部売れるコト』よりも、『1億人が知っているコト』の方が遥かに価値があると考えます。

1億人を楽しませることができたら、その瞬間は1円にもならなくても、後から何とでもなると思っていますし、なんとかします。

 

僕は、1億人が知っていることよりも、10万人、いや、たった10人が価値を認めてくれることの方が遥かに嬉しいです。

引用の後半を読めば、1億人はみんな楽しんでくれたってことが前提になってるので、ちょっと話ズレてるんですけどね。でも、お金がないと生きていけないこの世の中で、楽しむだけ楽しんで知らんぷりする人よりも、ちゃんと価値を認めてくれて応援してくれる人の方が尊いです。

 

何でも金かぁ!金がほしいんかぁ!

 

そう思う人は結構。僕はお金がほしいのではなく、お客さんの喜んでくれる、その笑顔です。みんなで一つの事を共有して味わえるって最高じゃないですか!でも、ルールはちゃんと守りましょうよ、と言っているのです。

 

価値を提供する→価値に対してお金を払う→もっと頑張ってそのお金に見合う価値を提供する→価値に対してお金を払う→さらに頑張る!

 

それがこの世の中のルールなんです。

 

そう、僕らは芸術家やクリエイターはお金の為に頑張ってる訳ではありませんが、価値を認めて貰えればさらに良いものを作ろうと頑張れるんですね。お金があるからこそ次に繋がるんですから。

芸術家やクリエイターが頑張って良いものを作ると、それを通してみなさんももっと楽しい体験が出来る。そうやって、お互いに良い思いが出来るんです。

 

そういったwin-winな循環関係も良いもんですよ?

 

恐怖の一平ちゃんチョコソース味劇場!!

コンビニでの話。

なんとなく前を通りかかったのよ。別に何か欲しかったわけでもなく。アイツは何の前触れもなく現れたんだ。気が付いたら、何故だか分からないけど、義務感みたいなものに駆られて手を染めてしまっていた。やめときゃいいのに。

 

一平ちゃんチョコソース味!!!

 

明星 一平ちゃん夜店の焼そば チョコソース108g×12個

明星 一平ちゃん夜店の焼そば チョコソース108g×12個

 

 

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!!

 

もうヤケクソでテンション上げております!!!w

これがねぇ、もうホントひどいんだから!!前にもショートケーキ味ってのがあったけど、良くもまぁ、これだけ分かりやすく日本国民の胃袋に攻撃を仕掛けてくるもんだ!!

 

これが実物だ!!!


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まず気になったのはココア色の麺!!お湯を注いだ瞬間に覚えのある匂いが鼻にもわっと広がる・・・し、ショートケーキ味のソースだ!!あれと同じ匂いがする。

 

この時点で最悪の体験になることは決定的だ。。

 

ソースには小分けにされたチョコソースの他に、ココアパウダーやココアバター、フルーツペースト、マンゴーチャツネが入っていながらも、醤油やラードなんてものも入っている。

 

なんだこの感じは。

 

チョコソース味なんかに成り下がったくせに、まだマトモな焼きそばだと言い張るのか?!?!

 

この際言ってやろう。

 

 

お前はゲテモノだっっっ!!!!!

 

 

実食!!! !

 

意外といけんじゃねぇかこのやろぉぉぉおおおおお#*#*#:うあ8w#/*8jk@/−#+#q8!!!!!!!!

 

う、うま、、うま…い……??まさか、そんなことが……

 

あるはずねぇぇぇぇぇぇ!!!!!

 

意外とイケるけどこのマズさピカイチだよ!!!!!

 

しっかりマズイよ!!!!!

 

あれ?意外とイケる?ちょっと気持ち悪い?思ったほど悪くは……やっぱ気持ち悪りぃ!!こんなん食ってたまるかっ!!!!

 

みたいな。そんな感じぃみたいな。

 

まぁ、そんな感じだ。

 

やっぱりね、生温かいチョコの匂いはダメよ。すっげぇ気持ち悪いw 湯気とともに上がってくるあの匂いに襲われた時は、殺意を覚える!!

このチョコも絶妙にマズイ!! いいチョコを使おうって考えはないのだろうな!w ニセモノ感がすごいのよ!w

かと言って、ゴディバで焼きそば作ってもマズイのには変わらんのだからな!!

 

そこ誤解するなよ!!!一平ちゃん!!!

 

それでも、あの忌まわしきショートケーキ味に比べたら随分マシではある。そのイメージがあるから、一瞬「イケる?!」と思ってしまったんだろうな。人間の脳って怖いな。そこを突いてきたんだとしたら、一平ちゃんも大したもんだw

 

一応言っておくけど、完食なんてしてないからな!!!

 

5口くらいしか食えなかったからな!!!

 

日星食品さん、この企画ほんとやめて下さい……

また買っちゃうじゃないですかぁ!!!((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 

 

明星 一平ちゃん 夜店の焼そば ショートケーキ味  110g×12個

明星 一平ちゃん 夜店の焼そば ショートケーキ味 110g×12個

 

 

ブログを休んで分かったこと。

ここ数日の間、風邪をこじらせてしまった為、記事を書くのを休んでいた。本当は休みたくなどなかったのだが、頭が働かないし、熱も悪寒も酷いもんだから休まざるを得なかった。

しかーし、図らずともこの休養のおかげで気付いたことがある。

今日はその辺について、いつもながらゆるーく書いていくことにする!印刷して家訓にでもするように!

 

それじゃー、いっちゃうよ!!

 

書くことに追われる日々

このブログは、書くのが好きで始めたことだ。

 

ツィンク奏者がブログを始めた理由 - ひろしコンフォーコ

 

この記事でも書いてるように何も目論見がないとは言わないが、楽しんで出来るだろうと思ったし、実のところ、僕はブログを楽しんでいた。書くことも、読んでもらえることも。もちろん、やっていく上で大変なこともあるんだろうことは、事前の調べからも、自分の性格の上でも想像はしていた。だから、単に予期していたことが起きたに過ぎないのだが、徐々に書くことに負担を感じるようになっていた。

原因ははっきりしている。これは、子供の頃から僕の中に根付いている“義務感”が成せる業なのだ。

どんなに好きな事であっても、「〜しなければならない」と考えた途端に気持ちが萎えてしまう。例えば、楽器の練習なんかでもそうだ。

 

「今日は何をすべきか」

「高い音が苦手だから改善に取り組まないといけない」

「上手くなるにはもっと練習すべきだ」

 

これでは、自分のやりたいことをやるのにも関わらず、「本当はやりたくないのにやらなければいけない」とでも考えているようだ。僕は、自由に好きなことをやりたいと思いながらも、義務感によって自分自身に不自由な生き方を選択させ続けてきたのだ。そして、「やるべきこと」が出来ないと罪悪感を感じてしまうという悪循環に陥るのである。まったく皮肉な話だ。

これは現在進行形の話で、ブログを書くのにも無意識に適応させている。それが足かせになり、書くことに負担を感じたりしてしまったのである。

 

休まらない頭と身体

僕は、意図的に休むということが苦手だ。やり出したら止まらないし、出来ない時には、さっきも書いたように罪悪感を感じたりと、常に何か考えているのである。それは全く文字通りのことで、朝起きてから夜寝てしまうまで考え続けているということは、少しも珍しくない。というか、むしろそういうことの方が多い。僕の脳みそはいつもフル回転なのだ。

これは、結局何もしていない時でも休まっていないということでもある。これに気が付いたのはほんの数年前で、それから出来るだけ意図的に休もうと工夫しているのだが、これがなかなか上手くいかない。というのも、僕は、休むということにあまり良いイメージがない。さっきの話にも繋がるのだが、どこか罪悪感みたいなものだったり焦燥感を感じるのだろう。休まなければもっと前に進めるのに、休むことで足踏みすることになってしまうんじゃないかと考えてしまうのである。

しかし、そんなことはいくらなんでも非現実的だ。“継続は力なり”とは言っても、“休んではならない”とは言っていないのだ。

“やればやるほど上達する”というのも、その通りかもしれない。しかし、疲れを無視することで不調を招く。

 

“継続”にも“上達”にも休息が必要なのだ。

 

自由へ

今回、風邪を引いてブログを休んだ訳だが、これも例に漏れることなく、僕が罪悪感に苛まれるには充分な原因になった。だから、始めはなんとか書こうとしたのだが、体調が悪くて作業がなかなか手に付かず、結局書くことが出来なかった。

しかし、イチイチこんなことで罪悪感を感じたり頭を悩ませるのは時間がもったいないし、何よりもバカバカしい。だから、その日の夜に、体調が良くなるまでは何も考えずにゆっくり休もうと考え直した。すると、気持ちも楽になり、それだけで幾分かは体調がマシになったような気がした。

不思議なことに、体調が良くなるに連れて、魔女の宅急便のキキがスランプから脱するかの如く、書きたい気持ちが湧き上がってきた。

書くことから離れたからこそ生まれた感情。

それまでは、書きたいということが特別だと思ったことはない。それはあまりに日常的なことで、書きたいと思っていることすら自覚していなかった。

結局のところ書くことが好きだということなのだろう。何かを発信することもそうだ。単に目立ちたいとか、有能感とか、承認欲求とか、そういう下らない類の欲望に裏付けられたものなのかもしれないが、好きであることに違いはないし、何も悪いことをしているのではない。

そして、好きである限り、どれだけ義務感やそれに連なって生み出される罪悪感や焦燥感に邪魔されようとも、自由に書ける可能性がある。義務感を介さずに、書きたいから書くことが出来るのだ。

 

そんなこんなで、これからも好きなように書きたいことを書いていこうと思う。

 

僕にとって、自由でいるということはとても大切なことなのだ。

 

海の見える街

海の見える街

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もっと歌って?感情を込めて?吹奏楽部の指導に疑問を呈す!

中高の吹奏楽部では「もっと歌って!」と言われる事がよくある。そして、その言葉に継いで「もっと感情を込めて!」と指導される。

 

結論から言えば、これは間違った指導だと思うが、そもそもこれは何を意味しているのだろうか。

 

歌うって?

楽譜に書いてある音を単に並べたような演奏になっている時、「もっと歌って!」と指導される事が多い。棒読みになっている、ということだ。確かに、音楽を演奏する時にはプロアマ問わず、どんなレベルでも表現することが求められる。そういう意味では、この指導もあながち間違ってはいない。「棒読みではいけないよ」と。

 

でも、具体的に歌うってどういう事だろう。

どういう風にすれば歌っているという事になるのだろう。

 

感情を込める?

「もっと歌って!」と指導されるシーンでは、感情を込めることを求められる事も多い。これは、どういう事なのだろうか?感情的になる事で、「歌う」ことが出来るのだろうか?確かに、棒読みではなくなるかもしれない。でも、棒読みでなければ何でも良いという訳ではないというのは、誰にでも分かる事だと思う。

おそらく、「音楽の流れや旋律が持つ抑揚を感じ取れ!」という事なのだろうが、それは感情的になる事で得られるのだろうか?甚だ疑問である。

 

事実、感情的になる事と表現する事は全く違う。

 

「歌う」という「スキル」

歌うというのは、

「なんて美しいメロディなんだうぉぉぉおおお!!!」

「可愛いあの娘の為にうぉぉぉおおお!!!」

って気分が盛り上がれば出来るというモノではない。「歌う」というのが「表現する」という事であるなら尚更だ。

「歌う」の基本になるのは音楽理論や音楽史だ。どんな時でも音楽理論や音楽史によって裏付けられる必要がある。

例えば、このシーンは和声よりも対位法を優先すべきだから、輪郭のハッキリした音色で感情的な抑揚よりも正確さを大切にしよう、といった具合いに。

他にも、フォルティッシモで解決に向かいっていく和声の中で旋律が引っ張っていかないといけないシーンだから、太い音色でしっかりとビブラートをかけよう、という例もある。

また、音楽史を裏付けにするなら、ティンパニと一緒に奏でるこのトランペットのモチーフは古典派に良く出てくる型で、当時のトランペットは今のトランペットとは違う音色だったから、それを意識してティンパニとの音量や音色のバランスを考えよう、というアイディアもある。

もちろん、同じシーンでも色々な判断や表現方法があって然るべきだが、いずれにせよ、「なぜそう演奏するのか」明確な根拠が必要なのだ。

それは、音楽は演奏家だけで楽しむ為のものではなく、作曲家や指揮者を含む演奏家、聴衆といった、その空間と楽曲に関わる全ての人によって成り立つものだから、独りよがりな演奏は避けなければならないからだ。

 

そして、当たり前のことながら、これらの知識を実際の演奏に活かす為には、楽器の技術が必要だ。

 

こう考えると、「歌う」というのは知識によって裏付けられ、技術によって可能にする「スキル」だという事が分かる。

 

「歌って」では歌えない

上に書いてきた事から分かるように、いくら部員や楽団員に「歌って!」と言ったからといって、それは無理な事だ。

 

どうして和声法が分からないの?音大生や吹奏楽部員を見ていて思うこと。 - ひろしコンフォーコ

 

この記事では、中高生の吹奏楽部員も和声法などの音楽理論を学んでみよう!と勧めているが、それがもっと必要なのは指導者だ。理論を理解していれば、「もっと歌って!」といった抽象的な言葉ではなく、具体的に「なぜそう演奏するのか」といった事を部員に教えられるからだ。そして、理論に根ざした指導によって、部員自身も自分で応用が出来るようになる。

「ここは非和声音だから〜」といった具合いに。

「もっと歌って!」のもう一つの問題点は、上手くいかない時に、その原因を突き止められないという事にある。上手くいかないから「もっと歌って!」と指導する。それでも、上手くいかないから、更に「もっと歌って!」と。これは、本当に多い事だと思うけれど、「もっと歌って!」と演奏者のせいにしている暇があれば、自分で勉強して具体的な根拠を持って表現する事を始めてみれば良いのである。

繰り返しになるが、「歌う」というのは「感情的になる」事ではなく、「知識によって裏付けられ、技術によって可能にするスキル」なのだ。という事は、まず始めにやることは知識を蓄える事だ。音楽理論を学ぶ事だ。中高生もどんどん学んで欲しいと思うが、学ぶ事を疎かにしている指導者がどれだけ多いか。

吹奏楽コンクールで勝つ為だけではなく、音楽文化と教育の為に、より良い音楽の為に積極的に学んで欲しいと思う。

 

「歌う」はスキルだ。