ありふれているからこそ価値あるもの。
これはごく個人的なことだけれど・・・
僕は古楽を含むクラシック畑の人に誇れるような、胸張れるような活動をしたいとは思わない。
僕もツィンク奏者だから、サンマルコ寺院で吹いてみたいと思うことはある。
*サンマルコ寺院はツィンク奏者にとって重要なレパートリーを残した作曲家や演奏家が音楽を担当していた教会。
でも、僕はその辺の「音楽なんか知らねぇよばぁろぉ!」みたいなオヤジと一緒に音楽を楽しめたら最高だなぁなんて思う。
もしも、何かの間違いで僕がサンマルコ寺院で演奏するようなことがあったら、そんなオヤジにいっぱい来てほしいなぁw
肩ひじ張らずに、難しいこと抜きにして楽しみたい。
それが正しいとか、そういうことじゃない。
ただ、何にでも権威を求めたり、本流でなければ認められない、といった価値観は好まない。
音楽は開かれたものであって、決して音楽家たちだけのものではないのだから。
だから、僕はオヤジたちと音楽を楽しめたら、それは至高の喜びだと思う。
いや、、無論、美女であることに越したことはない。
むしろ、頼むから美女に囲まれて演奏する機会を死ぬ前に一度、、、
音楽はそこら中に溢れていて、取るに足りないからこそ価値がある。
特別なものじゃない。
権威を与える必要なんてない。
そうでないと、音楽は大切な価値をひとつ失うのだと思う。
音楽家の価値。
本流にいないと認められないとか、それがすごいとか偉いとか、そういった条件みたいなものが、僕はあまり好きじゃない。
例えば、演奏の上手い下手はある程度区別できるとしても、その活動自体には優劣は付けられない。
カーネギーホールで演奏したと聞いたら、なんかすごいと思ってしまうみたいな。
いや、確かにすごいことだよ?
歴史的演奏が繰り広げられてきたわけだから。
偉大な音楽家たちが立った同じステージで演奏できるのはすごいことだと思う。
でも、それで音楽家の価値が変わるかと言えば、そうじゃない。
いくらカーネギーで演奏したからと言って、その音楽が素晴らしいとは限らないから。
これは、もしかしたら、その辺の消防隊員の中にウサイン・ボルトより足の速い人がいるかもしれない、くらいの話かもしれない。
ただの概念論にしか過ぎないのかもしれない。
でも、本当の価値というのは、ボルトが獲得したメダルの数々にではなくボルト自身にあるってこと。
音楽家も同じ。
どこでどんな勉強をして、どんな人たちとどんな所で演奏したのか。
そんな事で音楽家の価値は判断出来ない。
自分が何に価値を見出し、どう生きるのか。
それは、自分以外の誰にも変えることの出来ないことだし、誰かに決められていいことではない。
自分以外の誰かを評価する時だって同じ。
その人が何をしたかではなく、どういう人間か。
何を持っているか。
経歴や功績は、それを知るための手掛かりでしかない。
それ自体に価値があるわけではない。
つまりは、そういうこと。
ちっぽけなツィンク奏者は、そう自分に言い聞かせるわけです。
週末の夜は古い音楽でも聴いて過ごしませんか?
今宵はですね、クラシック音楽として知られている時代よりも古い音楽を紹介しようかなぁ~、なんて思ってます。
みなさんどうですかねぇ、今の時代って音楽を聴くにも便利になって、むしろ音楽だけに耳を傾けてゆっくり過ごす、みたいな時間って意外とないのではないでしょうか?
いつでもどこでも何をしていても聴けますからね、今は。
もちろん、それも素敵なことですけれど、たまには昔のように、音楽だけの時間も良いのではないかなぁ、そんな風に思ってます。
昔のようにって言いましたけど、今の若い人、特にスマホ世代はどうなんでしょうか。
音楽だけの時間ってかなり新鮮に思うのではないでしょうか。
僕自身は、CDとかテープの時代ですから、そこそこ便利になってはいましたけど、あまりポータブルミュージックプレイヤーなんてのはメジャーではありませんでしたからねぇ。
僕もテープのウォークマン持ってましたけど。
でも、やはり聴き方は昔と変わらないというか、音楽に熱心に耳を傾けて聴いてましたねぇ。
四六時中、音楽に触れられることが嬉しくてたまらなかったのを良く覚えています。
気分転換で音楽を聴くことなんてなかったですもんね!
音楽が聴きたくて聴きたくて、一日中聴いてました笑
今は、そんな時間を持つこともほとんどなくなってしまって、やはり、ながらで聴いてます。
作業しながら気分転換に、とか、そんな感じが多くなりました。
まぁ、そんなこんなでですね、たまには音楽にどっぷり浸ってみようじゃないかと!
流星群が観れる!ってなったらみんな星空観に行くじゃないですか。
桜の季節には花見に行きますよね!
そんな感じで、音楽を思いっきり楽しんでみるのも、きっと素敵だと思いますよ!
てなわけで、ふる~い音楽をいくつか紹介しましょうかね!
演奏は、ツィンク奏者ジャン・テュベリ率いる『Ensemble La Fenice』とカウンターテナーのフィリップ・ジャルスキー。
アルバム『Un concert pour Mazarin』から4曲お届け!
どぞ、お楽しみあれ!!
※iTunesでもApple Musicでも聴けます!リンクをクリックするともう少し長く試聴出来ます!
独自ドメイン取得しましたー!!
ども!愛されすぎてお困りなツィンク奏者、ひろしです!
記事も少しずつ増えてきたし、グーグルのアドセンスもそろそろ導入したいしってことで、、、
独自ドメイン取得しましたー!!!
今までは、URLの最後に「hatenablog.com」って付いてたんですけど、それを取っ払って独自のサイトURLを使いたいなと。
その方が、今後ブログを育てていく上で良い”そう”です。
ちゃんと勉強したんだけど忘れちゃった・・・w
そして、グーグルアドセンスも「hatenablog.com」ってのが付いてる状態では申請出来ないので、お金の為に独自ドメイン取得しました!!w
でも、一番はなんとなくカッチョイイから!!!
結局、なんだかんだ言って人間そんなもんですよね?
多分…
てなことで、今後もガンガンいこうぜでいきますので、よろしくお願いしますー!!
あ、アドセンス広告が入るようになっても、出来る限り読みやすいようにしますので、ご乱心くださいませ。
現代の演奏家が抱える問題。
現代の演奏家は、音大を卒業しているようなレベルであれば非常に高い技術を持っている。
音色も音程もアンサンブル能力のどれをとっても申し分はない。
その上、かなり技巧的なこともやってのけるだけの力も有している。
しかしながら、これだけ優れた演奏家たちであるにも関わらず、ある共通した問題を抱えている。
特に管楽器奏者に多く散見される。
それは、
美しい音色で奏でることにこだわること。
一つ一つの和音にこだわること。
アンサンブルを整えることにこだわること。
この3つをより抽象的に言うなれば、”歌”がないということだ。
美しい音色は一つの道具に過ぎない
どうせ演奏するなら少しでも美しい音色で奏でたいと思うのは、音楽を愛する者の自然な欲求だ。
しかしながら、美しい音色で奏でることにこだわり過ぎてフレーズへの意識と表現が乏しくなっているとしたらどうだろう。
フレーズがどこまで続いてどこで切れているか、そんなことは誰でもやっているのは当然で、僕もそんなことを言いたいのではない。
フレーズを表現すること。
フレーズをどう表現するのか。
それは、単にクレッシェンドするとか、アーティキュレーションを変えるということでもない。
そういったことも大切な要素ではあるけれど、より大切なのは横への流れだ。
どれだけ美しい音色で奏でようとも、ただ音を並べただけでフレーズとして聞こえてくる訳ではない。
美しい音色で奏でることにこだわり過ぎて横への流れが悪くなり、フレーズが聞こえてこなかったり、表現が乏しくなっているケースは非常に多い。
美しい音色を奏でることと音楽は何の関係もないこと。
美しい音色は単なる道具でしかなく、必須アイテムでもない。
大切なのは表現すること。
表現とは何か知ること。
そうでなければ、本来楽器の練習なんて何一つ出来ないはず。
全ては音楽に為、表現の為に技術を磨くのだから。
金管奏者の場合は、バテ対策の為にペース配分をしなければならないことも多いが、その場合、バテるのを恐れて効率重視になり、表現が蔑ろにされている場合もある。
一つ一つの和音に意味はない?
音楽に携わる人なら、多少なりとも和声(コード進行)について学んだことがあると思う。
和声というのは、縦に積み重ねられた音の集まり(和音)が音の組み合わせを変えながら横に流れていく時にどういった効果を生み出したり、どういった表現の可能性があるのかを知る手がかりだ。
和音の使い方についてのルールを学ぶことが和声の本質ではないということ。
現代の演奏家はよく訓練された音感を持っている為、一つ一つの和音を美しく響かせるのに苦労はしない。
しかし、美しく和音を奏でることに気を取られて和音が連なることで生み出される効果が蔑ろにされていることは少なくない。
それぞれの和音は前後の繋がりによってその効果が変わる。
なので、前後関係を考慮した上で、その和音をどう響かせるか考える必要がある。
また、一つ一つの和音としてではなく、和音の連なり(和声)よって生まれた大きな”一つの流れ”としてどのような表現をするか。
一つ一つの和音が美しく響いたとしても、それだけで和声の効果が得られる訳ではない。
和音はそれ一つで意味を持つのではなく、連なることによって意味を持つ。
一つ一つの和音を美しくすることだけでなく、それを横にどう繋げていくのか常に考えるのが大切だ。
それが音楽に表情を与えるのだから。
アンサンブルって何なのよ?
日本の演奏家のアンサンブル能力は世界でもトップクラスだと思う。
高校生の吹奏楽部を取ってみてもそのレベルの高さが伺える。
それが音大卒業やプロのレベルになると、とんでもなく高い水準でアンサンブルを聴かせてくれる。
しかし、ここでも一つ問題がある。
アンサンブルを整えることを優先して主張がなくなっていること。
そもそも主張というのは、音楽に限らず個の主張がなければ全体での主張も生まれない。
そういう意味では、全体のまとまりばかりを追い求めることが、全体の方向性(主張)を生まれにくくしているとも考えられる。
アンサンブルの出発点は、いつでも「自分はどう吹きたいか」「自分はこの曲をどう捉えるか」という個人的なものであるべきだ。
アンサンブルは調和であって、抑制やまとめることではないからだ。
みんなが自由に違うこと言っているにも関わらずまとまっている、調和しているというのは、決して珍しいことではないし、むしろ自然でさえある。
まずは、自分が何を言いたいのか、それを大切にすること。
決して、全体をまとめようとして、個を蔑ろにしたり犠牲にしたりする必要なんてない。
みんなが自由に奏でて、その上でどうするか考えればいい。
個を大切にすることが、全体の方向性と新たな魅力を生み出すのだと信じている。
【このすば】ローソンでこの素晴らしい世界に祝福を!2のキャンペーン始まった!
みなさん、このすば!!!
今年、1月~3月に放送されていた人気アニメ『この素晴らしい世界に祝福を!2』のキャンペーンをローソンで始まりましたぁぁぁぁぁぅぅぉおおおおおおお!!!!!
このキャンペーン、ななななんと、『このすば』の主人公パーティのキャラクターストラップがもらえるってやーつ!!!
ローソン限定!!!
数量限定!!!
駅近の店舗では、すでに品切れしてきているのでお早めに!
特にめぐみん!!!!
めぐみんが全然いない!!!
早めにめぐみんをスティールしといてよかったぁぁぁ…
ちなみに、僕はすでに全キャラクター揃えましたー!!!ィェィ
まだ、『このすば』を観てない!!って方は1期と2期合わせてU-NEXTでどぞ!
笑いあり、涙、、、なし、、、
な、楽しい世界に、きっとほっこりしたり、夢を見たり、笑顔満載に!!
U-NEXTなら追加料金なしで家族分(4人まで)のアカウントを作れるのでお得ですよ~ん!
小さな部屋の中で収まる小さな世界。
昔は思ったのよ。
色んな所に行ってみたい。
色んなものをみたい。
色んな場所で色んな人に出会ってみたい。
色んな経験がしたい。
世界って広いんだろうなぁ~って。
そんな妄想を繰り広げてたわけよ。
憧れとも言うのかな。
少ないお小遣いやバイト代で映画観に行って、その道中で目にするものに新しい世界を感じたり、今まで知らなかったものに出会ったり。
もっと知りたいと思ったし、もっと新しいものに触れたいと思った。
そういうのが好きだったし、面白かった。
でも、今は違う。
世の中は便利になって、わざわざ外に出て行かなくても新しい世界を見つけることが出来るし、新しい人と出会うことも出来る。
いつだって好きな時間に好きな映画が観られるし、買い物だって出来るし、知識やスキルを身に付けることだって出来るし、友達も出来る。
インターネットさえあれば、なんだって出来る。
もちろん、外に出て体験することと違いがあることもあるだろうけど、どちらかが劣ってるという訳でもないと思う。
コミュニケーションに関しては、特に理由がないのであれば、直に会って話をしたり盃を交わすような機会もあった方がいいとは思うけれど。
世界は小さいなぁ。
子供の頃、トランペットを片手に思い描いた世界はあんなに大きかったのに。
こんな小さな部屋の中でほとんど全てのものが収まってしまう世界。
僕が思っていたのとは、少しも似ていない世界。
なんだかセンチメンタルである。
でも、世界ってでけぇなおい!
そう思わせてくれる人もいる。
ツィンクの師匠だったり、以前書いた植松伸夫だったり、憧れの音楽家たちだったり。
師匠のレッスンに行った時は毎回のように思う。
世界ってすげぇな。
こんな人いんのかよって。
特にこれといった取柄とかあるわけじゃないのに悟ってしまっている僕だけれど、こんな風に思わせてくれる存在が身近にいるのは、これ以上にないくらい嬉しいものなのである。
なんだかんだ言って、世界はデカいし、小さい。
僕はどちらの世界も愛しているのだ。