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ひろしコンフォーコ

ツィンク奏者が物知り顔であれこれ語ろうとするものの、ちっとも上手くいかないブログ。

最高にこだわり過ぎなんじゃない?

毎年、新年になると一年の抱負を語ったりする。僕も、特に意味を考えず、子供の頃から当たり前のように一年の抱負を考えたりしている。ある程度、大人になったらいい加減に考えることも多いけど、何かしら考えている。

 

最高の一年にしたい

「最高の一年に」「飛躍の年」「大きな一歩を踏み出したい」

これらの言葉は、新年に語られる事の多い言葉だ。オリンピックを控えたアスリートや悲願の優勝を目指すプロ野球選手が具体的な目的の為に言うこともあれば、毎年のように同じ目標を掲げ、今年こそ目標達成しようと言うこともあるだろう。

どちらにしても、いつも以上に良い一年にしたいという意図が見える。それは、すごく共感出来ることだし、その思い自体は素敵だとも思う。何も否定される必要もないだろう。

 

でも、本当に最高である必要があるのか?

 

充実教

これは、充実した毎日を過ごしたいというのに似ている。仕事も忙しいのにそれだけで満足するのはなんだか惜しい気もするし、好きな事や自分の目的意識に合致した仕事をしているのでなかったら、他の事にも手を出すのは当然と言える。

趣味やカルチャースクール、恋愛など、様々な事から充実感を得ようとする。色々なことに興味を持ってやってみるのは良いと思うし、何事も体験してみることで分かることもある。そうやっているうちに、本当に好きな事や魅力を感じるものに出会えるかもしれない。

どうもこの世の中は、充実している事が良いと考えられがちのようだ。何をもって充実しているかというのは、人それぞれの価値観があるだろうが、充実を求めるというのはなんとも不思議な動機である。

 

ベストを尽くすべき?

同じように、常にベストを尽くすべきだという考え方もある。コンディションが良い日も悪い日も関係ない。いつでも、出来るだけベストを尽くそうとする。

なるほど、確かに日々ベストを尽くすことを積み重ねていけば、大きな目標も叶えられるだろう。

しかし、ベストじゃないことに何が問題あるのだろう。確かにそれが出来れば、そんなに良いことはないかもしれない。でも、疲れてしまわないか?毎日ベストを求めることで、かえってパフォーマンスが落ちてしまうことにならないか?

 

なぜ、人々は自他にベストを求めるのだろう。

 

結果はコントロール出来ない

最高の一年にしたいのも、充実を求めるのも、ベストを尽くそうとするのにも、求める結果があるからだ。何かを手に入れる為の願望であり行動だ。

しかし、結果はコントロール出来ない。だからこそベストを尽くすべきだと考えるのも理解出来る。でも、本当にベストを尽くすことが結果に繋がりやすくするのだろうか?

そもそも、結果は本当に必要なんだろうか?

何かを得ることは重要なんだろうか?

 

結果が全て?

これはモチベーション管理にも繋がることだが、欲しいものを手にする為に行動するのではなく、その“行動”自体を目的にするという選択肢もある。

何かを得るのは素晴らしい体験だ。でも、結果ばかりを求める生き方では、もはや、その“行動”自体の意義が薄れてしまう。スポーツや音楽をする事の意義は誰もが感じているはずだ。しかし、結果ばかりを求めることで、スポーツや音楽をする事よりも、それによって得られる地位や名誉、時にはお金の方が価値あるものだと思い込んでしまう。

そう、僕らは大切なものを見失いやすいのだ。スポーツをしたり音楽をしたりすることが楽しくて、そこに価値を見出していたはずなのに、いつの間にか、結果を出すことの方が大事になっている。スポーツや音楽が、結果を得る為の道具になってしまっているのである。

もちろん、これはスポーツや音楽に限った話ではない。どんな分野でもそうだ。

面白いことに、僕らが良いパフォーマンスを発揮するのは、結果の事を考えている時ではなく、スポーツや音楽といった“行動”自体に集中している時だ。ゾーンやフローといった状態だ。結果を出す為に必要なのは、結果にこだわる事ではなく、スポーツや音楽といった“行動”自体に集中することなのだ。

 

目標を持つことは大切だ。

でも、一年365日もある。寿命が80歳だとしても29,200日もあるんだ。最高じゃない一年がいっぱいあっても、充実してないことがあっても、ベストじゃない時があっても、目標が達成出来ないことがあってもいいじゃないか。

そんな事にこだわり続けて疲弊するよりも、“行動”自体を目的にし、それを楽しむ方が、ずっと人間らしくいられるんじゃないだろうか。

 

最高なんかじゃなくたっていいのだ。