ひろしコンフォーコ

ツィンク奏者が物知り顔であれこれ語ろうとするものの、ちっとも上手くいかないブログ。

耳をすませば?

いや、そうじゃない。

ジブリの話をしているわけじゃない。

 

音楽にどう向き合うかって話だ。

 

耳をすませてよく聴いてみると、つまらなかった音楽の中に新しい神秘を見つけることがある。ありふれた和音であるにも関わらず、今まで感じたことのない響きがそこにはあって、それがたとえ古い音楽であったとしても新鮮さを感じさせる。

 

僕たちは、本当に音楽を聴いているんだろうか。

いま耳にした音楽の何を理解しているんだろうか。

 

太陽の光に輝く海の水面だけを眺めて、全てを知った気になっているんじゃないだろうか。

少し潜れば、水面には絶対に現れない美しさがあり、海底にまでいけば深遠な闇が佇んでいる。その闇には美しさと同時に恐怖を感じるかもしれない。
天候の悪い日の荒れた海、街と命を飲み込む津波。

 

僕らは、そういうものを本当に知っているんだろうか。

音楽を知っているんだろうか。

 

僕は知らない。

だから、知りたい。

音楽って何なのか、知りたい。

 

それが、僕の人生での一番の興味だ。

いや、全てと言ってもいいかもしれない。

 

僕を含めて多くの音楽家は、音楽の海をダイビングすることを知っているだろう。

でも、海底にまでは行ったことがない。

そこにどんなものがあるのか。

いま見ているものの底には何があるのか。

 

僕らは、音楽について何も知らない。

 

特に最近は、クラシックでも僕がやっているルネサンスやバロックを含む古楽でも、ポップスでも、表面的に美しく着飾った音楽が好まれる。それが悪いとは言わない。そういった音楽も必要だし、どういう音楽が優れてて、どれが劣ってるという話でもない。

 

僕らの音楽の向き合い方の話だ。

 

僕もそうだが、ウォークマンやスマホの普及に伴って、BGM的な音楽の聴き方が広がり、それが主な音楽の接し方になっている。色んな音楽に誰でも手軽に触れられることは、もちろん歓迎すべきことだ。

 

でも、それよって、僕らが音楽の表面しか聞けなくなっているとしたら?

海の美しさや恐ろしさといった、本当の姿を知らずに水面だけを見てそれが全てだと思い込んでいるのだとしたら?

 

僕らは、もっと音楽に耳をすませる必要があるんじゃないだろうか。

 

大切な“なにか”を見失っているんじゃないだろうか。

 

 

音楽を知りたければ音楽に聞け。

 

僕らは、耳をすませるしかないのだ。