ひろしコンフォーコ

ツィンク奏者が物知り顔であれこれ語ろうとするものの、ちっとも上手くいかないブログ。

学ぶということ。大学や専門教育よりも大切なこと。

僕は大学に行ってません。高校も中退です。
大学に行きたかったので高卒認定(旧大検)を取りましたが、結局、大学には行きませんでした。

20代半ば頃まではたまに言われました。

 

「今からでも大学行け」

 

正直、うっせぇなぁと思ってました。

だって、中学生の頃からこう思ってましたから。


大学って意味あんのか?
大学に行かなきゃ学べないのか?
誰かに教わらなければ学べないのか?

 

自分の頭で考える

よく、「ちゃんと学ぶ・勉強する」という言い方をします。
それは、キチンとした先生に付いてとか、大学に入ってとか、そういうことを言っています。

 

ちゃんちゃらおかしいと思います。

 

自分で学ぶことの出来ない人間が、誰に何を教わるというのでしょうか。

それなのに、先生に付かなければ、大学等で専門教育を受けなければ、専門家になり得ないのでしょうか。
では、大学しか出てない人は博士号を持ってないので、その人達から見れば専門家じゃないのでしょうか。

 

そもそも、音楽の世界でも学問の世界でも、絶対的に正しいと言えることの方が少ないです。

であるならば、学んでいく過程で(一生かもしれませんね)正しいと思うことは変わって当然なのです。

これが正しい! これに到達しないものは、みな間違っている。
専門家たり得ない! とでも言うのでしょうか。

 

ここまで来ると、笑い話でしかありません。

 

もちろん、誰かに教わったり、専門教育を受ける機会があるのであれば、利用すればいい。
ただ、それには問題があって、自分で学べない人間が専門教育を受けても、誰かのコピーになるだけだということです(自分で考えてるつもりでも、です)。

 

学ぶ為に、手段として、一度コピーしてみる、というのは賢明な学び方のひとつだろうとは思います。

 

自由に発想する

個性というのを、むやみに主張したりするつもりはさらさらありません。
ただ、自分で学ぶことをせず、誰かのコピーとして生きることに興味はないのです。

それは、他の誰かがやってくれています。

 

専門教育を受けずとも、あらゆる価値観のコピーになる危険性はありますが、その価値観をどう判断するか、ということには自由でいやすいです。
本当は、どこで、どう学ぼうと自由は保てるはずですが、見えなくなってはいけません。

盲目で学べることはないのです。
学問は宗教(そもそも、宗教も盲信するものではありません。自由な批判が必要です)ではないのですから。

 

自由に発想し、自由に学ぶ。

 

そうやって、自分に出来ることをやっていけばいいのではないでしょうか?

無理に周りに合わせる必要はありません。

そんな理由、ひとつもありませんから。