現代の演奏家が抱える問題。
現代の演奏家は、音大を卒業しているようなレベルであれば非常に高い技術を持っている。
音色も音程もアンサンブル能力のどれをとっても申し分はない。
その上、かなり技巧的なこともやってのけるだけの力も有している。
しかしながら、これだけ優れた演奏家たちであるにも関わらず、ある共通した問題を抱えている。
特に管楽器奏者に多く散見される。
それは、
美しい音色で奏でることにこだわること。
一つ一つの和音にこだわること。
アンサンブルを整えることにこだわること。
この3つをより抽象的に言うなれば、”歌”がないということだ。
美しい音色は一つの道具に過ぎない
どうせ演奏するなら少しでも美しい音色で奏でたいと思うのは、音楽を愛する者の自然な欲求だ。
しかしながら、美しい音色で奏でることにこだわり過ぎてフレーズへの意識と表現が乏しくなっているとしたらどうだろう。
フレーズがどこまで続いてどこで切れているか、そんなことは誰でもやっているのは当然で、僕もそんなことを言いたいのではない。
フレーズを表現すること。
フレーズをどう表現するのか。
それは、単にクレッシェンドするとか、アーティキュレーションを変えるということでもない。
そういったことも大切な要素ではあるけれど、より大切なのは横への流れだ。
どれだけ美しい音色で奏でようとも、ただ音を並べただけでフレーズとして聞こえてくる訳ではない。
美しい音色で奏でることにこだわり過ぎて横への流れが悪くなり、フレーズが聞こえてこなかったり、表現が乏しくなっているケースは非常に多い。
美しい音色を奏でることと音楽は何の関係もないこと。
美しい音色は単なる道具でしかなく、必須アイテムでもない。
大切なのは表現すること。
表現とは何か知ること。
そうでなければ、本来楽器の練習なんて何一つ出来ないはず。
全ては音楽に為、表現の為に技術を磨くのだから。
金管奏者の場合は、バテ対策の為にペース配分をしなければならないことも多いが、その場合、バテるのを恐れて効率重視になり、表現が蔑ろにされている場合もある。
一つ一つの和音に意味はない?
音楽に携わる人なら、多少なりとも和声(コード進行)について学んだことがあると思う。
和声というのは、縦に積み重ねられた音の集まり(和音)が音の組み合わせを変えながら横に流れていく時にどういった効果を生み出したり、どういった表現の可能性があるのかを知る手がかりだ。
和音の使い方についてのルールを学ぶことが和声の本質ではないということ。
現代の演奏家はよく訓練された音感を持っている為、一つ一つの和音を美しく響かせるのに苦労はしない。
しかし、美しく和音を奏でることに気を取られて和音が連なることで生み出される効果が蔑ろにされていることは少なくない。
それぞれの和音は前後の繋がりによってその効果が変わる。
なので、前後関係を考慮した上で、その和音をどう響かせるか考える必要がある。
また、一つ一つの和音としてではなく、和音の連なり(和声)よって生まれた大きな”一つの流れ”としてどのような表現をするか。
一つ一つの和音が美しく響いたとしても、それだけで和声の効果が得られる訳ではない。
和音はそれ一つで意味を持つのではなく、連なることによって意味を持つ。
一つ一つの和音を美しくすることだけでなく、それを横にどう繋げていくのか常に考えるのが大切だ。
それが音楽に表情を与えるのだから。
アンサンブルって何なのよ?
日本の演奏家のアンサンブル能力は世界でもトップクラスだと思う。
高校生の吹奏楽部を取ってみてもそのレベルの高さが伺える。
それが音大卒業やプロのレベルになると、とんでもなく高い水準でアンサンブルを聴かせてくれる。
しかし、ここでも一つ問題がある。
アンサンブルを整えることを優先して主張がなくなっていること。
そもそも主張というのは、音楽に限らず個の主張がなければ全体での主張も生まれない。
そういう意味では、全体のまとまりばかりを追い求めることが、全体の方向性(主張)を生まれにくくしているとも考えられる。
アンサンブルの出発点は、いつでも「自分はどう吹きたいか」「自分はこの曲をどう捉えるか」という個人的なものであるべきだ。
アンサンブルは調和であって、抑制やまとめることではないからだ。
みんなが自由に違うこと言っているにも関わらずまとまっている、調和しているというのは、決して珍しいことではないし、むしろ自然でさえある。
まずは、自分が何を言いたいのか、それを大切にすること。
決して、全体をまとめようとして、個を蔑ろにしたり犠牲にしたりする必要なんてない。
みんなが自由に奏でて、その上でどうするか考えればいい。
個を大切にすることが、全体の方向性と新たな魅力を生み出すのだと信じている。