ひろしコンフォーコ

ツィンク奏者が物知り顔であれこれ語ろうとするものの、ちっとも上手くいかないブログ。

音楽は芸術??芸術とは??音楽非芸術論。

ある音楽、楽曲が芸術的かどうかなんてのは考えるにも値しないことだと思うわけだけど、特にクラシック音楽ファンやそれに関わる人の中には、個別の曲に対して芸術的価値がどれだけあるか、もっと言えば、音楽は芸術であるべきという考え方の人も少なくない。
しかし、芸術的かどうかという判断をどこでしているのか、かなり感覚的であったり個人の趣味の範囲を超えなかったり、ということが多いように思う。

 

例えば、芸術的かどうかの基準がベートーヴェンであったりワーグナーにあるのだとしたら、それはとても残念なことだと思う。
というのも、その思考自体が音楽の価値や多様性というものを狭めてしまうからである。
色々な考えがあるだろうけど、最初に言った通り、僕は芸術的かどうかなんてことは考える必要なんかないと思う。


その上で、あえてそういった価値観で音楽を語るとすれば、吹奏楽にもゲーム音楽にもジャズにもロックにも芸術的な楽曲というのはたくさんあると思っている。
クラシック音楽=芸術音楽なんて考え方は古めかしいどころか、基準も曖昧で論理的思考の欠いた感情的なものでしかない。

そういった考えをする人にとっては吹奏楽やゲーム音楽にまで芸術的音楽が存在するなんて認めもしないだろうし、ハッキリ言ってしまえば、芸術とは何か考えてもいないのではないか。
僕は、そもそも芸術という言葉自体にバズワード的な面があると考えているからこそ、そういった価値観を採用しないわけだけど、いわゆる“芸術”という意味ではベートーヴェンにも勝るゲーム音楽なんてのも存在しているかもしれないと思う。

 

ただ、ここまで言ってきたことを見れば分かるように、この指摘は矛盾している。
結局のところバズワード的な“芸術”という言葉を使って音楽を語ることなど到底出来ないし、どこかに無理が生じるのである。

芸術というのが、何を意味し、その定義と基準を明確にしないことには、芸術という言葉に大した意味はない。

 

僕は音楽を芸術的かどうかなんて狭い見方をしたくない。

それは、ある種強烈な感情である。

音楽を芸術という枠に押し込めてしまいたくないという切望なのだ。

 

音楽には多種多様な価値があり、それを捉える人によっても意味が変わるものでもあり、そして、それをどう考えるのかは自由なのである。
そういった意味で、音楽は~である、音楽は~であるべき、といった考えや表現は好まないし、大した価値のないものだと思っている。

 

そう考えてみると、音楽は芸術であるべき、といった価値観が如何につまらないもので、現実に合わないものであるのか分かって頂けるのではないだろうか。

 

これも一つの価値観でしかないし、他にも様々な価値観があるのは当然だが、音楽というものを一つの価値観に押し込めたり、決めつけたりせずにいたいものである。

 

森山広という人間。小学時代編。

前回の続き。

 

hiroshimoriyama.hatenablog.com

 

小学1年生の頃、僕は天草四郎に憧れ単身で熊本県天草市に移住した。そこでの暮らしは、貧乏ったれ過ぎて毎日雑草に塩コショウを振って食べるほどだったが、豊かな自然とのどかな空気に包まれ、僕は自分の天才っぷりに磨きをかけていた。

 

僕にはくそったれでどうしようもなく残念な兄貴がいる。歳は3つ上だ。天草に引っ越してきたとき彼は4年生で、ちょうど部活動に入部できる学年だった。彼には、水槽と音楽と何が関係あるんだ? くらいの知識しかなかったが、音楽が好きなら、という母の勧めで吹奏楽部に入部した。
このエピソードで分かるように、兄貴は僕と違って天才ではない。いや、ただの愚民である。

 

ここから、僕は謎の英才教育を受けることになる。
兄貴が吹奏楽部で覚えてきた曲を歌って聴かされ、それを覚えこまされるのだ。そして、僕が歌うそのメロディに合わせて彼が違うパートを歌うという、正直、何が楽しいのかさっぱり分からなかったが、たまには愚民のやることにも付き合ってやらねばならないのが現実。天才であるがゆえの苦しみである。

ちなみに、覚えさせられたのはネリベル作曲のフェスティーボだ。

 

そんなこんなでワケワカラン毎日を過ごしていたのだが、4年生のときに転機が訪れる。

なんとも運の悪いことに、兄貴もお世話になった吹奏楽部の熱血教師が担任になってしまったのである。
というのも、僕はソフトボール部かサッカー部に入るつもりだったのだが、「森山の弟」というだけで目を付けられてしまったのである。実に不運であるが、才能の塊であるがゆえに見逃すことが出来なかったのであろう。

 

 

そして、運命の日。

 

 

熱血教師の鶴の一声で、友達と二人で吹奏楽部に見学に行くことになった。
音楽室に入ると教室いっぱいに先輩たちが楽器を持って座っていて、人数も多かったのでそれだけですごい迫力だったが、僕らの為に演奏してくれるというので、じっと先輩たちを見ていた。

ネリベル作曲『二つの交響的断章』の第二楽章。ティンパニソロの強奏から始まり、金管群がフォルティッシモで鳴り響いた。そして、木管楽器が悲痛な叫びをあげる。
見事に整えられたアンサンブルと歯切れのいい金管楽器の音色と迫力、いや、まさに迫真というべきその演奏に、まるで金縛りにでもあったかのような衝撃を受けた。虜になったというのではない。文字通り、“何か”に憑りつかれたのである。

 

 

その瞬間、僕はトランペットを演奏することを決めた。

 

 

たった4つの音、一小節に並べられた《F-D-B♭-A》という、たったこれだけの音だった。僕の人生を変えたのは。

 

あの時の音は未だ脳裏に焼き付いている。
今でも目を瞑れば、あの4月の終わりの天草の風景や香りが鮮明によみがえる。そして、その時の光景や先生や先輩と交わした言葉もひっそりと聞こえてくる。

ありふれた出来事だけど、僕にとっては何よりも大きなこと。僕の音楽家としての道のりはここから始まったのだから。

それからというもの、寝ても覚めても音楽のことばかり考えるようになった。それこそ、朝起きてから夜寝るまで、ご飯食べる時も授業中も関係なく、僕の意識は音楽に奪われていた。そして、そう時間を空けずして、ウィーンフィルの首席になることを夢見るようになった。

まったく、天才らしいエピソードである。凡人との違いというのは、こういったところでも現れるのだ。

 

ちなみに、この頃、現在僕が専門にしているルネサンス~初期バロックの音楽との出会いを果たしている。それがルネサンスだとか初期バロックだという意識はなかったが。

また、ツィンクとも資料の中で対面しているが、これがツィンクとの初めての出会いである。

 

hiroshimoriyama.hatenablog.com

 

そんなこんなで、不思議な方向に興味を持ちながらも普段は特に意識することなく、いわゆるクラシック音楽やオーケストラ、トランペットで奏でられるあらゆる音楽に憧れを抱きながらこの時代を過ごすことになった。

 

吹奏楽部に勧誘し、勝手に自分の担当する楽器を決めてしまった僕を受け入れ、音楽を教えてくれた熱血教師のことは恩師だと思っている。それくらいに感謝している。それは、間違いなくこの時代に経験したことが、現在の僕の礎になっているからである。

 

 

こうして、ツィンク奏者が生成され始めたのだった。

 

 

最近になって思うことがある。

 

当時考えていたことは正しかったと。

一人の人間として将来結婚し子供を育てるべきだが自分は結婚すべきでない、自分にはそれが出来ない、と悟っていたのだから。
見事に、現在の僕は結婚不適合者で花の散った独身である。

 

 

 

物語は、まだまだ続く…

 

 

うーん、なんかちっと真面目っぽくなっちまったなぁ、、、

不本意である。

 

 

 

※100億割増しで脚色してます(@_@)
F-D-B♭-Aは「ファ・レ・シ♭・ラ」の音のことです。

 

 

【レポ】「福盛邦彦 リコーダーリサイタル」を勝手にレポ。オルガニスト冨田一樹作曲の初演曲もレポ。

2月12日、関西の若手リコーダー奏者、福盛邦彦氏の自身初となるリサイタルに行ってきた。
ピアニストの小野文氏とのコンビによる演奏だ。

当初、お昼だけの予定だったこの公演は、予約多数の為、同日の夜に追加公演が設けられ初リサイタルでありながら2回公演となった。
筆者は夜の公演に伺ったが、小さな空間ではあるものの席はいっぱいであった。

 

一つ注目なのは、昨年とあるコンクールで世間を賑わせたオルガニスト冨田一樹氏だ。彼の作曲した曲が初演されたのである。それについては後ほど詳しく。

 

どうでもいい情報ではあるが、福盛氏とは中学時代からの友人(当社調べ)であるからして少々辛口なコメントになる恐れがあるが、出来る限りフェアに彼の奏でた音楽について書いていこうと思う。

 

覚悟しろよ!!友よ!!!w

 

目次

 

近現代の英国人作曲家を中心としたプログラム

クラシック音楽に詳しい方であれば、リコーダーと聞くとヘンデルやテレマンといった、いわゆるバロック音楽を連想される方が多いかと思うが、実は近現代でもリコーダーの為に書かれた曲というのは多数存在する。
さすがに筆者も、初リサイタルとなればバロック中心の公演になるのだろうと予想していたが、いい意味で期待を裏切られた。

今回は、英国の近現代作曲家が中心のプログラムである。

以下、プログラム詳細。

 

前半

ハーバート・マリル Herbert Murrill
『アルトリコーダーとピアノのためのソナタ』

ゲオルグ・フィリップ・テレマン Georg Philipp Telemann
『無伴奏フルートのための12のファンタジー 第2番 ハ短調(イ短調)』

ゴードン・ジェイコブ Gordon Jacob
『アルトリコーダーとチェンバロまたはピアノのためのソナチナ』

後半

武満徹 Toru Takemitsu
『ピアノのための雨の樹素描Ⅱ~オリヴィエ・メシアンの追憶に~』

マルコム・アーノルド Malcolm Arnold
『リコーダーとピアノのためのソナチナ 作品41』  

冨田一樹 Kazuki Tomita
『リコーダーとピアノのためのパッション』

ゴードン・ジェイコブ Gordon Jacob
『アルトリコーダーとチェンバロまたはピアノのためのヴァリエーション』

 

前半の感想

全体的にスッキリとまとめられている印象。
イタズラに劇的な表現はせず、和声的特徴や旋律の動きと流れを正確に把握して表現されていた。曲に対する理解度の高さが窺える。
そして、やはりアンサンブル能力が高い。これは彼の大きな武器であるが、ソロでもそういった強みを活かしているのは素晴らしいことだ。

 

それは一曲目のマリルから良く表れていた。途中、少々スロースターターかという印象を受けたのも事実だが、明確な表現は好印象。聴いている側にも意図が伝わる表現というのは、実は案外難しいものだし、出来ているように見せかけて、勢いで誤魔化していたり暴力的だったりすることは良くあることだ。

 

テレマンの無伴奏はさすが。リコーダー奏者にとっての一つのホームグラウンドだからか、安定感のある演奏だった。曲はフルートのためのものだが、今回はもちろんリコーダーで。
近現代の音楽ばかりに囲まれると、却ってこういう曲が印象に残りやすい。バロックの演奏家としてそういうことを意識したのかは分からないが、この選曲は正解だろう。

 

次にジェイコブだが、こちらは少しあっさりさせ過ぎたかなと思う。もう少し劇的な表現を積極的に使ってもいい場面はあると感じた。その方がメリハリが付けやすい曲だと考えるからだ。彼自身は、安易な発想で劇的に演奏するのは好まない奏者だが、それをすべきシーンはわきまえている。それを考えると、今回はたまたま上手くいかなかったのか、別の解釈をしたということなのだろう。
しかし、まだ序盤だ。始めからギアを入れすぎるのも良くないという考え方もあるのかもしれない。

 

後半の感想

武満はピアノソロでの演奏。非常に印象的な演奏だった。多少、ルバートの扱いが曖昧になる部分もあったが、それが気にならないほど一つ一つの音を丁寧に描かれていて、聴衆も大満足の演奏だった。あえて言うなれば、日本的な音の紡ぎ方だと感じた。武満が日本人だからそう言う訳ではないが、玉響な時の流れに耳を傾ける心地よい空間がそこにはあった。

 

アーノルドで再び主役の登場。

ここまで息のあったアンサンブルを聴かせてくれてた二人だが、この曲では少し乱れがあった。普通ではほとんど気にならない程度ではあるが、曲の解釈の違いによるものだろうと思う。音をどう処理して次の音に向かうのか、といったことがアンサンブルを乱すことがある。今回見られたのはそういう類のものだと考えていいだろう。
しかしながら、この曲の持つ旋律の美しさを如何に表現するのか、といったところはさすが良く解釈されていて、アーノルドの特徴的な旋律がしっかりと印象に残る演奏だった。

そして、最後のジェイコブ。

これが一番完成度が高い演奏だった。ピアノパートの表現も主役に負けない明確な表現で、メリハリを付けた演出。
これまでも福盛氏の演奏を聴いてきた身としては、彼はこういった変奏曲が得意なのだと思う。一つの旋律が変化していくのをどう料理するか、といったセンスがあるのだろう。というのも、彼は旋律に関する分析が明快で、その特徴を捉えて表現するのが巧いのである。まるで絵でも描くかのように、その輪郭と微細な変化を描くのだ。正直、憎たらしい(笑)
ソナタやコンチェルトもいいが、それよりもずっと変奏曲の方が彼の良さを引き出している。かと言って、変奏曲ばかり演奏するわけにはいかないが(笑)
そういう自覚があってかは知らないが、この曲を最後に持ってきたのは大正解と言えるだろう。彼の良さが充分に発揮された優れた演奏だったのだから。

 

作曲家 冨田一樹

冨田氏の名前を知っている人も少なくないと思うが、簡単に説明を。

彼は、昨年のバッハ国際コンクール オルガン部門で優勝し、日本人で初めてカール・リヒターに並ぶ快挙を成し遂げた若手オルガニストである。それまで全くの無名であったが、『情熱大陸』でも取り上げられ、その名を全国に轟かせることになった。
そんな彼は、大学時代から作曲や編曲の活動も行っており、筆者も作編曲を依頼したことがある。

 

それでは、今回初演となった冨田一樹作曲『リコーダーとピアノのためのパッション Passion for Recorder and Piano』について書いていこう。

 

まずは、演奏について。

曲の特徴を良く捉えた非常に良い演奏だった。繰り返し登場する主題となる旋律の扱いも柔軟で、曲の流れや和声による印象の変化が充分に表現されていた。
主題以外の部分で、もう少し和声に寄り添った表現をしてもいいのではないかという感想も持ったが、それは好みで片付けられる程度のことだ。あえて違う表現方法を選ぶのも悪くないし、それはそれで良いセンスだと感じた。
もう一つ思ったのは、こういった何度も同じ旋律が繰り返される曲は工夫が必要だということ。演奏者にとって、実は演奏しづらいものでもあるのだ。聴衆を飽きさせずに、より魅力的な曲に仕上げるのかという点はもう少しアイディアが必要だと思う。

とはいえ、聴衆はかなり満足した様子で、実際いい演奏だったことは間違いない。

 

では、楽曲について。

非常に聴きやすく、少し装飾を纏った印象的な旋律も多くの人にとって親しみやすい。
若い作曲家にありがちな小細工をすることなく、曲全体の構成を自立させている点で高評価。そして、それが前提にあるからこそ、和声的工夫や主題に付された変化などが際立つ結果になっているのだろうと思う。
この曲は主題となる旋律が繰り返し何度も現れる。その後ろでは色々な変化が起こっているのだが、旋律自体には余計な変化は与えられていない。
その中で、様々な要素を用いて旋律の印象を強めている。場面の切り替え方や和声の流れ自体が印象的な仕掛けでもあるのにも関わらず、ピュアなままの旋律の印象を強める素材として機能しているのだ。

これは作曲家の意図を理解したうえで言うのだが、演奏者に多くの判断を委ねるような曲でこれだけ同じ主題を繰り返すのは演奏者泣かせでもあると思う。
というのも、こういった曲の場合、演奏によっては「同じ旋律ばかりが繰り返されてクドイ」という印象に繋がる危険もあるからだ。
その点、演奏者に任せずにもう少し明確な変化を与えるか、もしくは主題を使用する限度を設定するか、という選択をしても良かったのではないだろうか。この曲は、主題によって全体の統一性を持たせている部分もあるので、その辺の選択は難しいところでもあるというのは付け加えておこう。
また、主題とそれを繰り返すことに意味を持たせているゆえの結果なのだろうとも想像している。

大学時代から作曲能力も高かったが、今回の曲も非常におもしろく、彼の個性が良く表れた素晴らしい曲だった。率直に、また別の演奏でも聴いてみたいと思った。この曲の違った面を見れるかもしれないという意味において。

 

ちなみに、冨田一樹氏は冨田勲の息子ではない。作曲もされる為ますますややこしいが誤解なきよう(笑)

 

 

今回の公演は注目すべきところが多く満足度の高いプログラムだった。
演奏についても、彼の様々な面をごく一部ではあるが見ることが出来たのは良かったと思う。また、彼の音楽に対する理解度の高さを示すことにも成功している。

初リサイタルとしては充分な出来といえよう。

 

 

バレンタインにチョコもらえない。日本ちね。

実にくだらない日だ。

一年で今日ほどくだらない日はない。

 

街中がアホアホ人間に埋め尽くされ、心底どうでもいいことにうつつを抜かすあの日である。

 

アホ女子、アホ男子!

今日はバレンタインだ。

アホな男どもはいくつチョコがもらえたとか、告白されたとか、しょうもなさ過ぎて頭がぶっ飛んでしまいそうになるくらい下らないことで浮かれてやがる。

 

おいおい、そもそもよく考えてみやがれ。

チョコレートの施しを受けなきゃいけないほどの貧乏ったれに誰が恋をするというのだ?!

どこの低スぺだよ、、まったく。

 

それに、女性からチョコを巻き上げようなんて考えるクソヒモ野郎は女の敵でしかなかろう?

何をそんなダメ男に引っかかっているのやら。

 

男も女もいつからこんなにアホになったのか。

我が日本国民は一体どうしたというのだ。

 

日本男児はどこいった?

大和撫子はもういないのか?

 

まぁいい。とりあえず、、、

 

チョコくらい自分で買え!!!

 

 

チョコなめんな!!

バレンタインになれば脳内を侵されたお花畑系女子がうじゃうじゃ湧いて出てきて、世界を席巻する。

そして、考えることといえば

 

チョコを手作りするか店で買うか、だ。

 

どんな愚問だよ、と思うが、まぁ本命チョコだから悩むのだろう。

会社の上司に渡すのなんて、ちょっと小奇麗に包んだチロルチョコで十分なのだから。

事実、多くの上司は部下にとってそれくらいの価値しかないのだ。

 

それでだ、本命チョコを手作りするか店で買うか問題だが、、、

答えは簡単だ。

 

 

男子のお口の本命はお前の手作りチョコじゃねぇよ?!?!?!

 

 

これが真実だ。

脳内侵されたお花畑系女子よ。

 

チョコは

 

 

店で買え!!!

 

 

なにパティシエに勝負挑んでんだよ!!

俺らが食べたいのはこの時期のチョコレート専門店でしか買えないような、そんなプレミアムなチョコレイトゥなんだよ!!

日本のパティシエなめんな!!!!

 

怒りの根源

俺にもチョコくれぇぇぁあああああああ!!!!!

人付き合い悪すぎて、いや、ついでに性格も悪すぎて、さらについでに心汚れまくってて、チョコなんてほとんどもらったことないんだわっ!!!

 

友達いねぇのかって?

 

いねぇよ!!!

 

俺の友達だと思ってる君、、、

 

友達じゃねぇよ!!!

 

流れが怪しくなってきたが、まぁそういうことだ。

あ、でも本命チョコは何度かもらったことあるぞ。量より質ってことだな。

 

でも、言っておくが、今度手作りチョコ渡してきたら専門店まで買いに行かせるからな!!!

 

どうでもいいはずなのに、バレンタインにチョコもらえないとか何故か悲しすぎる。日本ちね。

 

聖バレンタイン責任とれよ!!!!

 

 

【レポ】『コルネット(ツィンク)とサクバットのためのワークショップ』に行ってきた!!

2月11日に神戸で開催された『コルネット(ツィンク)とサクバットのためのワークショップ』に行ってきたので、さっそくレポ!

 

参加者は、開催地の神戸、京都、滋賀、三重、名古屋、そして大分から計6名が集まった。大分から来られた方はフェリーで登場するという強者っぷり。それだけ貴重な機会だということがこういったところでも伺える。
聴講も少数来られてたが筆者も聴講でお邪魔した。

 

講師は、この会の主催者でありツィンク奏者の上野訓子氏とサクバットの和田健太郎氏。
伴奏・アシスタントは笠原雅仁氏。リュートとテオルボ、ツィンクを担当されていた。

 

タイトルで()書きしているように、コルネットというのはツィンクのこと。そして、サクバットは大雑把に言えば16世紀~17世紀に使われていたトロンボーンのことだ。
ツィンクにはコルネットという名前もあるのか?トロンボーンはサクバットって呼ばれてたのか?ということについては、改めて記事にするのでお楽しみに!

 

ということで、ワークショップの内容について書いてみようかなと。

 

いっちゃうよ!!!

 

レクチャーⅠ「17世紀装飾のための教則本の紹介と実践」

まず、どの時代にどんな音楽家が装飾に関する教則本を出版しているのかといった歴史の概要について説明があり、その後、実際の曲で装飾を実践するという内容。各装飾の名前やその特徴といったことにも説明が付けられた。

また、現代では動きに変化をつけたい時などに曲の流れに合わせてルバート(テンポを揺らす表現)させることも多いが、この時代では動きをつけたい時でも基本的にルバートはせずに“テンポの中”で表現することなど、この時代の慣習についても紹介された。

装飾の実践では、この時代によく登場する定型のフレーズに当時の教則本に記載されている装飾例から選び、実際に装飾をつけて演奏するという流れ。


これは個人的な感想だが、参加者の装飾付き演奏や講師のレクチャーを聴いていて思ったことは、装飾は難しければいいのではないのだなぁ、ということ。センス良くとか、そういうことでもない。それよりも大切なのは、その装飾が意味するところを知り、それを表現できているかということ。

 

初っ端から大変有意義なレクチャーで、すでに胸いっぱいの筆者である。

 

レクチャーⅡ「トロンボーン500年の歴史とレパートリー」

二つ目のレクチャーはトロンボーンの歴史に関するもの。特に16~17世紀のサクバットについて。

当時出版されたいくつかの文献からサクバットの運指表(どのポジションで何の音が鳴るのか示す表)を参考に、現在との運指の違いやその理由、利点について講師の実演を交えて語られた。サクバットの運指と当時のピッチとの関連についても触れられた。

先ほどのレクチャーもそうだったが、この会は特に講師による実演が多く別途料金を払いたくなってしまった(笑)
それほど素晴らしい演奏だったし、実演によって説得力のあるレクチャーになっていた。
また、レクチャーを受けてから演奏を聴くことで講師の造詣の深さを窺い知ることも出来た。

 

サクバットについてはあまり詳しくない筆者にとっては非常に興味深い話が盛り沢山だったのだが、ここで全部書いてしまうわけにもいかないのでここまでにしよう。

 

参加者によるアンサンブル

レクチャーのほかにも、午前午後でそれぞれアンサンブルの時間が設けられた。参加者に与えられた課題曲を題材に講師からの指導を受けられるわけだ。

午前の部で扱った楽曲は以下の通り。

 

G.Piuli:Salve, o clemens, a8

G.Gabrieli:Canzon duodecimi toni a10

 

午後の部のアンサンブルで取り上げられたのは次の2曲。

 

H.Schütz:An den Wassern a8

G.Priuli:Sonata prima a8

 

午前午後で共通して言われていたのは、歌詞の重要性。
「歌を模倣する」という当時の“歌”を重んじる価値観から、歌詞の持つ響きやイントネーション、言葉の意味などからヒントを得て、如何に歌と同じように表現するのかといった説明があった。
歌詞の付いていない曲でも、“歌”を念頭に置いて歌詞がある曲と同じように演奏するように、とも。

 

 

今回、聴講での参加だったが、聴いているだけでも実に多くの示唆に富んだアイディアを得ることが出来て、非常に恵まれた機会となった。
なかなかツィンクとサクバットだけのアンサンブルをこれだけの人数で聴く機会もないので、そういった意味でも貴重な会であった。

 

第2回の開催を求む!!

 

 

カッコつけて筆者とか言ってみてるけど、なんともムズがゆい・・・

 

ツィンクってなんやねん!という方にはこちらを。

hiroshimoriyama.hatenablog.com

 

 

ブログもそんなに甘いもんじゃない。このブログで読まれている記事も紹介しちゃいます!

このブログも少しずつ検索からのアクセスが増えてきました。
始めた当初は、ほとんどがFacebookやTwitterのみなさんからのアクセスでしたが、それでも随分たくさん読んで頂いて感謝しています。
みなさんの応援のおかげで、ほぼ0だった検索流入も今では60%が検索からのアクセスになりました。

 

一方、FacebookやTwitterのみなさんはブログ2ヶ月目に突入した辺りから、

 

「あんまりつまらん事ばっかり書いてると読まんぞ!」

「もうビギナー扱いはせんぞ!」

 

ということなのか、少しずつ評価が厳しくなってきました。

検索流入もしょうもないこと書いてては増えませんので、それなりにしっかり書いた数記事が読まれているというのが現実です。

SNSでの流れを見ても検索の流れを見ても、これからはしっかりした記事書いていかんとなぁ、と気張っている次第であります。

 

みんなが愛してくれた記事たちを紹介!!

全体的に音楽ネタを好んで読んで頂いてる傾向がありますが、Facebookのみなさんは一番しょうもないネタ記事がお好きなようです。

たとえば、この記事のアクセスが一番多かったのはFacebookです。

 

hiroshimoriyama.hatenablog.com

 

正直、僕も狙った感じはあります。でも、そんなに読んでもらえるとは思ってもみませんでした。
拡散もたくさん頂いて、Facebookのみなさんの趣味を疑った時期でもありました(うそ)

 

Twitterでは、色んな分野の人と繋がっていたりハッシュタグ機能が使いやすいこともあって、こんな記事も読んで頂いてます。

 

hiroshimoriyama.hatenablog.com

 

ゲーム好きとか結構多いですからね。僕がニコ生民だった頃の繋がりとかもあるので、それも関係あるかもしれないし、ないかもしれません。

maybe yes,maybe no.

これが分かるあなたはFFⅧファン?!

 


そして、検索も含めてこのブログで一番読まれている記事はこれ!

 

hiroshimoriyama.hatenablog.com

 

圧倒的です!読んで頂いてありがとうございます!!
ツィンク奏者としても、耳をすませば好きとしても嬉しいです!!

 

あざっす!!!

 

 

そんなこんなで、これからもガンガンしょうもないこと書いていきますので、どうぞ僕で遊んでくださいな!(はぁと)

僕は幸せという概念を捨てた。

僕らは、いつどこで覚えたのかも分からない言葉に翻弄されている。幸せというものの正体も分らないままに。

 

幸せって??

「幸せの意味なんてそれぞれの価値観で変わる」

「幸せは自分で決めるもの」

 

よく言われるこれらの言葉には一定の真理がある。でも、それでも幸せから溢れる人はいる。自分で幸せを決められるのにも関わらず。

幸せの基準やあり方、その価値観を変えたところで自分の決めた“幸せ”からもはみ出てしまうのだとしたら、それは単に幸せになれないよりもずっと不幸なんじゃないか。

 

より多くの人が幸せに近づく一方で、より不幸な人も生み出してしまう。

 

そもそも幸せってなんだ?

幸せになった方がいいのか?

そんな必要があるのか?

 

幸せが不幸をつくる 

幸せになりたい。

 

それ自体はなんら問題のない感情。
誰だってそう思うし、少しでもいい人生を送りたいじゃないか。

 

でも、表があれば裏もある。幸せがあれば不幸もある。

 

僕らは、幸せになりたいと思ったその瞬間に不幸を生み出し、現時点での不幸を認めることになる。
幸せになりたいと思ってるうちは幸せにはなれないということでもある。

 

人間が幸せになりたいと思ってしまったのは不幸なことだ。

 

幸せの正体も、幸せになる必要性も、不幸が悪いことなのかも分らない。そんな中で、僕らは幸せという得体の知れない魔物に憑りつかれている。

 

不幸な人生

僕は、人生が幸せなものだと思ったことはない。多分、一度も。

二十歳そこそこまでは、「幸せか?」と聞かれれば「いや・・・」と口籠らせた。

実際、僕はいつも何かに頭を悩ませ、しかめ面していた。

自分という人間にうんざりしていたし、こんなのと死ぬまで一緒にいないといけないと思うと心底悲しかった。

僕はあまり人に好かれるタイプの人間じゃないが、僕ほど僕を嫌っている人間はいなかった。

 

いつも空虚で、不幸だった。

 

いつこの霧が晴れるのだろうと淡い期待を持ちながらも、そんなうまい話はないと諦めていた。

 

音楽がなければ今頃どうなっていたかしれない。

 

それくらいに、僕は自分にも人生にもうんざりしていた。

 

魔物退治

ある時、敬愛するアレッサンドロ・バリッコの戯曲『海の上のピアニスト』のある一節が目に留まった。

 

夢に蝕まれて、ぼくの魂はボロボロになりそうだった。夢に向かって歩めばよさそうなものを。ぼくにはそれができなかった。
 だから、それらの夢を凍結することにしたのさ、魔法をかけるように。
 こうして、ひとつひとつ、夢を捨ててきた。幾何学的作業、完璧な。

 

~中略~

 

そして、きみがここに入ってくるのを見たとき、ぼくは喜びに別れを告げ、そいつも凍結した。友よ、これは狂気なんかじゃない。幾何学だ。周到に計画された道路工事さ。こうして、ぼくは不幸を骨抜きにした。ぼくの人生を夢から解放したんだ。

 

この部分には色んな反応があるだろうが、僕は深く共感した。

そして、僕はこう思った。

 

 

幸せという夢を凍結し幸せから自由になればいいんじゃないか、と。

 

 

幸せから自由になれば不幸からも自由になれる。

こうして、僕は幸せという概念を捨て、自由になった。

 

 

『海の上のピアニスト』は映画が有名だが、元は一人芝居の為に書かれた戯曲だ。
ぜひ、原作を読んでみてほしい。

海の上のピアニスト

海の上のピアニスト